大根の絵を是非と、求めていただいた方は
大根が食べたかったからではない。
日常の喧騒や雑事で見失う、土の香りやみずみずしい水分
畑での幼少の記憶や、五感が染み入ることなど
人らしい感性が、玄関に置くことで、生き返る・・
そう思って里親になってくださったのだ。
絵に描いた餅は食えない・・この言葉は
いくら絵を描いたって、現実の生活には役に立たないんだ
そう言いたいんだと思う。
それを悟ったから、もう自分は絵を描かないなどと
もっともらしく嘯(うそぶ)く自称画家もいる。
私は、そんな愚問には参加しない。議論で圧制したって
何の意味も無い“屁のような空虚さと醜さ”の確立に過ぎない。
だって、絵に描いた餅が食えたら凄いなんて・・本当に
『求めている人は』希望しないもの。
絵を観たいと本当に『観に来ていただく方』が求めるのは
餅なんかじゃあない。餅以上の存在・・心なのだから。
どんな餅どころじゃない贅沢三昧でも満たすことの出来ない
心を満たしたいのだから。心が荒み、屈折し、排他的でうすら笑いをし、
意地悪で、陰口をたたく人・・
こうした人が、この言葉をもっともらしく作ったのだろう。
絵に餅を望む人は、きっと
心と重要なものを見失っている、気の毒な人なのだと思う。
自分の絵が、餅以下か、餅以上になるのか
それは、私にとって何の意味も無い。
私は そんなことで描いているんじゃあない。
描かなくては生きられないから描いているんだ。
『大根のかほり』個人所蔵
和紙に交響水彩。中央の綴じは、大根のひげ根